にあ、みぃあ
小さな猫の鳴き声が、しんしんと冷える夜闇の中かすかに聞こえた。
ふとそんな気がした勘兵衛はふっと覚醒する。
ぬくぬくと暖かな布団から身を起こす気にはなれないが気が付くと隣で寝ている筈の女房の姿が見当たらぬ。では今聞こえたあの声は、女房が何やら関わっているのだろうか。
未だ夢現の狭間にある意識で勘兵衛はぼんやりと考える。
すると−−−。
からりと聞き慣れた乾いた音を立て寝間の障子が僅かばかり開き、ひやり冷たい2月の空気にすうと頬を撫でられる。
首だけ動かし其方を見遣ると女房が寒そうな寝間着のままで立っていた。薄闇の中に浮かぶ白い足先が寒そうで勘兵衛は思わず顔を顰める。
「起こしてしまってすみません。」けれど此の仔がと、言葉を紡ぐ女房の腕の中にはほんの小さな仔猫、本当に綿毛の様な小さな固まりがあった。
「何だ其れは?」
「どうも仔猫の様ですが、どうにもおかしな具合でして」
言いながら白い手でひょいと仔猫を掲げてみせる。
まだほんの小さなその仔猫は七郎次の長い指に絡まる様に抱えられた。
ふわふわとしたキャラメル色の長い毛足は艶やかでいかにも優雅、瞳は鮮やかな紅、とてもこの近所で見掛ける様な品種では無い。
まるで山の手の何処ぞの御屋敷で飼われている様な品の良さだ。
「見掛けぬ顔だな。」
「然様で。しかも此の仔猫、どうもただの仔猫ではありません。」
勘兵衛がのそと起き布団の上胡坐を掻いた。
「……妖の類いとでも?」
七郎次は小首を傾げて曖昧な表情で微笑んだ。
「多分そうだと思うのですが……。けれど此の仔の纏うこの気配は今迄感じた事が有りません。」
数百年生きた妖である猫又が、困った様に眉を下げた。
「…またそれは面妖な。」口ではそう言いつつも、所詮はただの仔猫であろうと高を括ってもそりと布団に潜り込む、
女房以外には余り関心が向かない勘兵衛なのであった。
ぺちぺち。
何かが頬に額に当たっている。
人肌に暖かな其れは大層小さくて。そして結構容赦がない。
ぺちぺちと余りに触るので流石の勘兵衛も堪らずに目を覚ます。
「にぁ〜ん」
途端に嬉しそうな鳴き声が間近で聞こえた。
「!?」
勘兵衛は思わず瞠目する羽目になる。
何しろ勘兵衛の枕辺に居たのは……−−?
「どういう事だ、七。」
「此の仔にその様な能力が有ったという事で御座いましょう。」
熟年夫婦の間にちょこりと座り温めた牛乳を啜っている和子は…。
七郎次が言うには昨夜のあの小さな仔猫が変化した姿で有るという。
どう見ても5歳程の可愛らしい子供である其の姿は、
昨夜のキャラメル色でふわふわとした柔らかな毛並みを思わせる優しい色合の金色をした髪の毛をして、まあるい紅い瞳を持っていた。
だがそんな不可思議な出来事を目の当たりにしたとて、七郎次という立派な妖を女房として共に暮らしている勘兵衛にとっては、其れほど驚く事でも無かったらしい。
「まあその様な事もあるのだろう。なに不思議な事などこの世には何ひとつ存在せぬ。」
そうして、ひょっこり迷いこんで来たこの仔猫は仕方無く、この古本屋に暫く居候することとなった。
人の仔に変化した仔猫は、言葉は喋らないものの5歳の和子らしく、元気に家の中を動き回って七郎次を慌てさせた。
「こらこらキュウゾウ、店に置いている御本を触ってはなりません。」いくら汚くとも売り物ですからね、
それにキュウゾウの綺麗なお手てが汚れてしまいますよ。
などと聞き捨てならない言葉で仔猫を叱っている七郎次に勘兵衛が文句を言う。
「汚いとはなんだ。それに“キュウゾウ”というのは何だ?」
確かキュウゾウとは儂の学生よりの腐れ縁の友人の名ではなかったか?
「此の仔が自分の名は“キュウゾウ”だと教えて呉れたのですよ。言われてみれば何となく勘兵衛様の友人の久蔵殿とそっくりではありませんか。」
楽しそうに七郎次が笑う。
仕方無く店への出入りを禁じられた仔猫のキュウゾウは、七郎次が店番へと行ってしまうと「にあん」と寂しげに鳴いた。
知らぬ顔をして本を読んでいた勘兵衛は、その何とも切なげな鳴き声を耳してから何故か、
文字を追うという作業に没頭する事が出来なくなってしまった。
そうして終いには小さな子供の姿となったキュウゾウをひょいと抱えると自らの膝の上に乗せた。
嫌なら勝手に降りるだろうとと思っての行動であったのだが、勘兵衛の予想を裏切り仔猫はくるるくるると拙く喉を鳴らし、
そのまま膝の上に収まった。
思えば産まれ落ちてから此方小さな生き物には尽く嫌われてきた勘兵衛であったので、
其れには少しばかりの驚きと少なからずの感動を覚えた。
そんな事など微塵も知らない仔猫は、果たして其の侭ことりと眠ってしまい、
勘兵衛はと言うと膝に僅かな重みとぬくみを感じながら、やっと書物へと意識を戻すことに成功した。
どの位そうしていただろうか−−−。
するりと僅かな音を立て障子が開き七郎次が部屋へと入って来た。
そして其処に何とも円やかな光景を目の当たりにし、ゆるりとその白い頬を緩めた。
「これはまた…−。勘兵衛様らしからぬ事をなさいます。」
「こ奴が勝手に乗ったのだ。」多少憮然としながら勘兵衛が事実と異なる事を述べるのを、七郎次は嫣然と笑んだまま聞いた。
勘兵衛の顔が常よりも少し赤い事はこの際黙っていようと七郎次は思う。
「何なら此の仔は家で育てましょうか。」
「人ならざる者はお主1人で充分だ。」
「けれども、随分と−−−」そこで一旦言葉を切った七郎次は、じいと主の膝の上で眠る仔猫を見詰めた。
「随分と勘兵衛様に懐いておりますれば。」
慈愛に満ちた眼差しで告げられたその言葉は、何故か其れとは裏腹に声音は弱い。
勘兵衛はすいと片眉を上げる。
「こ奴が居るべき場所へ戻るまでだ。」
それだけ言うと勘兵衛は視線を書物へと戻す。
「……はい。」
七郎次が小さな返事を返す、仔猫は未だ目覚める兆しを見せない。
ただうっとりと無心に眠る姿を七郎次は見詰め続けた。
その伏せ気味の睫毛がふると小さく震えた。
仔猫のキュウゾウが勘兵衛宅に迷いこんでから3日が経った新月の晩、ただ真っ暗な闇が支配する深更。
七郎次が設えてやったキュウゾウ用の小さな寝床にて、ぐっすりと眠っていた子供がむくりと起き上がる。
物音の一つもたてずにすうと立ち上がると、見る間に子供の輪郭はぼやけてゆきどんな幻術かはたまた魔術か、
そこには1人の青年がぽつねんと立っているばかり。
「キュウゾウ、往くのですか?」
これもまた何時の間にやら起きていたのか、七郎次が寝間着姿の侭寝ていた布団の傍らに立っていた。
その枕元に置かれていた、つい今しがたまで己が寝ていた寝床を見下ろし、そして視線を七郎次へと回しキュウゾウがこくりと頷く。
「お迎えがいらしたのですね?」
寝間の廊下に面した障子の、硝子を通してしんしんと冷たい闇が見える。
その闇の中にちりちりと蟠る闇とは異なる影を、七郎次には確かに感じ取れた。
キュウゾウがこくりと頷く。
「勘兵衛様がさぞ淋しかる事でしょう。」
七郎次が静かな声で告げると僅かにキュウゾウの深紅の瞳が揺らいだ気がした、だが其れは闇が揺らいだだけかもしれない。
「また遊びにいらして下さいね。」
すうと細めた碧い瞳をじいと見詰めたまま「承知」キュウゾウが返す。
それからくるりと踵を返し静かにキュウゾウが寝間を出て行った。
はたりと障子の閉まる音が部屋にやんわりと響くと足元の布団がごそりと動いた。
「帰ったか。」
七郎次がゆっくりと布団に潜りながら呟くように「はい」と言う。
そうかと勘兵衛は思いながらゆったりと身を横たえる女房の冷えた身体を抱き込んだ。
「淋しいですか?」
「人ならざる者はお主1人で充分だと言った筈だが?」
「そうでしたね−−」
淋しいかと問い掛けた女房の声が余程に淋しそうだと思いながら、勘兵衛は冷えた身体を更に抱き込む。
七郎次は暖かな主の懐に鼻先を寄せながら、そういえば久しく乗っていなかった主の膝で日がな1日ごろりとするのも悪くないと、
眠りに落ちる寸前にぼんやりと考える。
ああ明日も晴れるといいのだけれど。
<おわり>
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22.2.22に上げ損ねた にゃんの話でした。
敬愛申し上げているMorlin.さま宅の仔猫の久蔵くんにゲストに来て頂きました。
お迎えに来てくれたのは勿論兵庫さんです。久蔵くんは兵庫さんにきっと「この莫迦者め」と叱られた事でしょう。
素直に甘える久蔵殿と甘えられない七郎次さんのお話、そして勘兵衛様はモテモテ(笑
Morlin.さま、勝手にお借りして申し訳ございません。すぐ御挨拶に参ります〜〜。
2010.03.07@YUN
*またまたYUN様に頂いたお話です。
メールを頂き、どひゃあとビックリvv
ななな、なんか、いいのかなぁ。
私なんて、ただのファンに過ぎないのになぁ。
ややこしい設定のウチの仔猫さんまで構って頂いて。
きっと久蔵さんは、例の因縁のある二人だと思って近づいたんだけれど、
残念ながらか、いやいや、幸いながら、
こちらの勘兵衛様や七郎次さんへは人違いだったのでしょうね。
本当にありがとうございましたvv
大切にしますvv 家宝ですvv
YUN様のサイトさんへ


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